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  野菜畑から「晴れの日の食事」を見る

New Year's cooking

どんな時に豪華な食事をしますか?晴れの日とは何ですか?
今流に言うと忘年会、新年会、クリスマス、ハロウィンなど「パァー」とやるときの
食事でしょうか。そして晴れの日は、成人式を思い浮かびます。それだけでしょうか?

そもそも晴れ「ハレ」とは、儀式や祭り、年中行事などをさし、衣食住や振る舞い、言葉遣いを日常生活と区別されて扱われました。また、晴れの日は長雨が続いた後に天気が回復して晴れ間がさしたような節目に当たる日をむかしは「晴れの日」と呼びました。

これに対し日常生活を褻「ケ」と呼びました。
普段着を「ケ着」といい、日常生活を営むための「ケ」のエネルギーが枯渇することは「ケ枯」「ケガレ」であり、おそらく「ケギライ」の言葉もそのあたりからきているのではないかと推測されます。

むかし「晴れ(ハレ)の日の食事」と「日常(ケ)の食事」は、完全に区別されていたと考えられます。今のようにお店に行ってお金を出せば贅沢な食事ができるといったものではなく、生活のマナーとして当然としていたものが、現代(戦後)に崩れたと言えるのではないでしょうか。
日常生活「ケ」の食卓は、田畑でとれたお米や野菜に御裾分け(おすそわけ)の品が
主でした。ちなみに御裾分けは、ウィキペディアによると「他人から貰った品物や利益の一部などを、さらに友人や知人などに分け与えること」とあります。
お米や野菜だけの食卓には、御裾分けは貴重な食材であったに違いありません。
御裾分けを通して、富の再分配が自然と行われ、日常が営まれてきた先人の生き方に改めて感懐を覚えます。

ハレの日には、餅、赤飯、白米、尾頭つきの魚、酒が振る舞われ、日常生活(ケの日)にそれらは食されませんでした。
このようなことから、現代において如何に時期を逸した食材があふれ、それらは
不自然な栽培がなされ、人々は食べれることのありがたさを忘れ、何を浮かれているのでしょうか?
今は、むかしと違って豊かになったゆえに...と言われるかもしれません。しかし、その豊かさには多くの矛盾を抱えています。そして貧富の差が明らかで、片や食べきれず、売り切れず、食品を廃棄するいわゆる食品ロスが発生しているのに対し、地球全体を見れば戦争や内乱、難民の発生、自然災害、それらにともなう継続的な生活苦により、明日生きられるか分からない人たちの数たるや...てんでおかしいでしょう。

そんな中、今の日本の子供たちを見たときにクリスマスプレゼント? お年玉? 
おせち料理嫌い? なんて...子どもたち自身はおかしくありません。だってその環境が普通(あたりまえ)だから、あたりまえの環境にしたのは私たち大人たち(政治家ではありませんよ)です。その大人たちも、今の状況を普通とされ気づかなかったのです。少し古いかもしれませんが歌手の尾崎豊の「卒業」の歌詞にある「仕組まれた自由」という言葉がピタッとあてはまるでしょう。

日常「ケ」の食事をしていると「ハレ」の日の御馳走は、飛びつきたいくらいの魅力があり、食べていても感慨に浸るものがあります。「ハレの食事」のために少しずつ食材を集める大人たち、それを楽しみにする子どもたち、それを御裾分けというかたちで見守り、陰ながら手助けするご近所・ご縁者、このスタイルが今の社会に致命的に欠けている「思いやり」「感謝の気持ち」なのではないでしょうか。




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